はじめに
遺品整理をしていると、それが単にモノを捨てたり、片付ける作業ではないことに気づかされます。
「ときめくかどうかで捨てるか決める」――
世界中で話題になったこんまりさんの片付けメソッドは、自分の持ち物を整理するには確かに有効です。
でも、遺品整理においては、この“魔法”がまるで効かないのです。
そもそも、遺品に「ときめき」などほとんどないですから。
そこにあるのは亡くなった人の生活の痕跡と、関係性の記憶であって、
「良い思い出」などはあるかもしれないけれど、「ときめき」は・・・。
処分するのが当然、合理的に考えれば「全捨て」こそが正解のはずなのに、
父がサッと書いたメモの1枚でさえ、つい手が止まってしまう自分がいる。
もちろん、時間が経てば気持ちは少しずつ落ち着いて、
処分できるものも増えていく。
けれど、そんな心のペースに合わせていては、
片付けは何十年経っても終わらない。
残したい気持ちと、動かなければいけない現実のあいだで
空き家となった実家。
誰も住む予定はなく、管理や防犯の面でもできるだけ早く売却するのが理想だ。
特に過疎地域の家なら、買い手がいるうちに動いた方がいい。
客観的な立場から、そのようにアドバイスはする。
それでも、「今は具体的に考えられない。せめて三回忌までは。」と言って残しておく人は少なくない。
亡父の愛車を手放せず、名義変更して維持しているという人もいる。
自分自身は運転しない、できないのに、だ。
合理的に考えれば、すぐに処分すべきだと分かっていても、
気持ちが追いつかないのだ。
遺品を見れば、胸の奥からほろ苦い気持ちが浮かんでくる。
あの苦味を、どこかで自ら味わいにいこうとしているような、
不思議な感情があるのかもしれない。
「実家に行く」の意味
かつての「実家」は、帰れば親が出迎えてくれて、
慣れ親しんだ料理があって、孫と遊んでもらったり、
気兼ねなく甘えられる場所だった。
あるいは、自宅療養中の親の世話をしに通うのも、
大変ではあったけれど、どこか張り合いもあった。
人に頼られることが、疲れながらも心の支えになることもあった。
けれど、空き家になった実家に行くというのは、
まったく別の体験だ。
窓を開けて風を通し、掃除をして、庭の雑草を取る。
生きている人の気配がまったくない場所で、
一人で淡々と動いていると、虚しさだけが静かに広がっていく。
整理するのは、モノだけじゃない
こんまり流のような“魔法”が効かない理由は、
遺品整理が「モノの整理」だけでなく「関係の整理」でもあるからだろう。
親との関係性、兄弟姉妹との距離感、
亡くなった人への思い、後悔の念――
そういったものが、押し入れや引き出しの奥からじわじわと湧いてくる。
だからこそ、片付けの負担は心に重くのしかかる。
自分だけで抱えきれないなら、
プロの手を借りるのは逃げではない。
感情に飲まれて動けなくなる前に、
片付け業者に依頼することも、家族間の摩擦を減らすための賢い選択だと思う。
また、片付けていると必ずぶつかるのが、謎のゴミ。
謎のゴミ=不燃?可燃?粗大?何ゴミに出せばいいのかわからず、なかなか手がつけられない不用品のこと。
そして、素人考えで「これ売れるんじゃない?」と思ってしまうモノ。
そんな謎のゴミの捨て方も、値段のつく動産かどうかの判断もプロに任せれば安心だ。
おわりに
遺品整理の経験は、
否応なく「自分はどうしたいか」という問いを突きつけてきます。
実際、実家の片付けで苦労をした人が、片づけに目覚めるというパターンも少なくないようですね。
親に「もう一度、やり直し!」と言えたらいいのですが・・・
今ある自分のモノ、家族との関係、これからの暮らし――
何を残したいのか、誰に託したいのか。
それは残された人が決められることではなく、
本来なら去り行く人が決めて、あらかじめ伝えておくべきなのですよね。
私も誰かに丸投げということにならないよう、自分なりに少しずつ整えていきたいです。