「遺言がある/ない」で何が違う?──人生の最後に「責任」を引き受けるということ

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はじめに

「遺言なんて書くほどお金持ちじゃない」
「うちは家族仲が良いから必要ない」
そんなふうに考えている方はかなり多いようです。

しかし、相続の現場を見ていると、遺言の有無は、その後の家族関係や手続きに大きな違いを生みます
遺言とは財産の分け方を示すだけでなく、人生の最後に残す“意思表示”であり、家族の迷いを減らす「道しるべ」にもなり得るものです。

この記事では、遺言がある場合・ない場合で何が起こるのか、どんな考え方で遺言を書けば良いのかについてお伝えしていきます。

遺言がないことで起きる“見えない混乱”

遺言がない場合、相続人同士で遺産の分け方を話し合う(=遺産分割協議)ことが原則になる。
その際の一つの目安として、「法定相続分(民法が定める割合)」が用いられることは多い。

ただし、法定相続分はあくまで“基準のひとつ”に過ぎない。
つまり、家族の合意があれば、まったく異なる分け方も可能だ

しかし、その分け方について“故人の意思”がまったく残されていない場合、どうだろう。
「なぜあの人が不動産を?」「介護してきたのは私なのに?」など、不満や疑念が生じやすくなる

誰かが多くもらうこと自体が問題なのではなく、そこに「納得できる理由」が感じられるかどうかが、トラブルを回避するカギとなる。

親という権威が不在になったとき

子供の頃は親という権威のもと、ひとつの家族を形成していた兄弟たち。
それがバラバラになるきっかけは、とても些細なことだったりする。
「お兄ちゃんは大学院まで行かせてもらったよね?」
「私はずっと実家で介護してきたのに」
「なんで私だけ少ないの?」
そんな小さな火種が、遺産分割の場面において大きな争いに発展することも多い。

遺言は、こうした衝突を防ぐための「理由付け」や「配慮の証拠」になる。
しかも法的効力を持っているので、「言った・言わない」の水掛け論になることもない。

長年親の介護を担ってきた子、親と同居していた子、距離的にも心理的にも親から離れていた子・・・
子どもたちそれぞれの立場や関わり方は大きく異なる
そこに“親の本音”が何も残されていないと、
「どうして私がこれだけしかもらえないの?」
「なぜあの人にだけ不動産が渡ったの?」
などの疑念が浮かび、兄弟姉妹間の関係性にヒビが入るきっかけになり得る

遺言は「親から子への最後の命令書」である

遺言は、親が子に宛てて書く“最後の命令書”である。
命令といっても、それは支配ではない。人生の締めくくりとして、自分の意思を明確に表す責任のかたちだ。

「子どもに任せるわ」と思考を停止してしまうのは、親の責任放棄でもある
むしろ、「私はこう考えている」「こうしてほしい」と具体的に伝えることが、残された人への最大の思いやりになる。

家族のために尽くしてきた親ほど、「子どもが幸せならそれで良い」と言う。
だが、子どもが幸せでいるためには、亡くなった後も迷わせず、揉めさせない配慮が必要だ。

そのための手段が、遺言というツールなのである。

遺言は“我”と“配慮”の両立

遺言には、「自分はこうしたい」という“我”と、
「家族にはこうあってほしい」という“思いやり”の両方が込められていることが理想だ。

独身の人や、子どものいないご夫婦などは、自分らしいエンディングを考える傾向が強く、遺言の内容にも明確な意思が反映されやすい

一方で、家族のために生きてきた方ほど、自分の希望よりも「みんなに任せる」という姿勢になりがちだ。
けれど、だからこそあえて自分の言葉で人生を締めくくることが、家族への最良のギフトになるのではないだろうか。

遺言が残す“安心”と“納得”

遺言があると、遺族は「どうするべきか」をゼロから悩む必要がなくなる。
それは心理的な安心だけでなく、手続きの円滑化にも直結する。

また、遺言があってもその内容にすべて納得できるとは限らない。
それでも、「親はこう考えていたんだ」と知ることは、感情の整理や、残された者同士の関係性において大きな意味を持つ

おわりに

相続において、「どのように分けるか」も大事ですが、
「故人の意思を、どう引き継ぐか」はもっと大切かもしれません。

遺言は、遺される者のための“準備”であると同時に、人生の最後に自分の意志を貫く“自己表現”でもあります。

最後まで、自分の人生をきちんと引き受けるという姿勢が、
「迷わせず、揉めさせない」――そんな家族への最大の配慮になるのではないでしょうか。

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